このページは、「京町堀慕情 京盛会復興30周年記念誌」を元に作成しております。
京町堀慕情

京町堀の歴史を調べようと、まずは図書で何かないかと調べたら、なんと「京町堀慕情」といった京盛会復興30周年記念誌という冊子を見つけ、早速中之島図書館へ。

1981年に京盛会より発刊されており、中之島図書館でも古籍扱いで書庫保管されており貸し出しも不可となっているものでした。

今まで、何気なく仕事の場として京町堀で過ごしていたのですが、この冊子を見ることにより、周りの風景がまた違ったものに見えてくるのが、自分でもおかしかったです。

今までもたまに本の購入に利用していた「柳々堂」も昔(大正13年頃)は京町堀通りに面したところにあったこととか、安田ビルは一階が明治銀行、地下にカフェがあったこととか、安田第3ビルは安田正商店であったこととか、都すしは昔からずっと同じ場所であったこととか、京町堀の街灯下の広告募集にある京盛会といったものが、昔から現在まで町の振興を支えてきたものとか、いろいろなことが分かり、昔のことなのですが本当に新鮮でした。
京町堀の生立ち

 大阪冬の陣、夏の陣の後、大阪城主松平忠明の人口移住政策に応じて、伏見京町から移住してきた町人らが開発した堀川を京町堀といい、その周辺の地を京町堀と称した。

 (中略)

京町堀川は、昭和30年6月大阪府防潮堤などのため埋立てられている。

 (中略)

 京町堀通を冠する町内の一から五丁目の町名は町名改正前にはあり、京町堀上通一から五丁目もあった。しかし、昭和36年3月の大阪都市計画により、西横堀川・元京町堀川及び百間堀川の各中心線にはさまれた江戸堀一から五丁目に接する区域、すなわち京町堀通一から五丁目、京町堀上通一・二・三・四・五丁目および靭北通一丁目の各一部を京町堀一から三丁目と改称した。そして、京町堀上通一・二・三・四・五丁目の他の一部は江戸堀一丁目から三丁目となる。
 京町堀一丁目は京町橋を通じて、東は平野町につらなり、その繁盛は商店街の平野町からのびて、つづいていた。船場平野町にはかって御霊文楽座もあり、その他の寄席もあって、きらびやかな小売店がならんでいたが京町橋を西にわたった通りも、西に雑喉場があり、九条本田川口よりの道路にあたっていたので、戦前、すでに道路を拡張し、街路樹を植え、スズラン灯も設けられていた。

 (中略)

 京町堀は文運上からいっても刮目にあたいする場所柄であった。

「京町堀慕情 P.2・3 京町堀 大阪大学名誉教授 宮本 又次」 より抜粋


雑喉場(ざこば):大衆魚を扱う魚市場(1931年大阪中央卸売市場の開設までここ京町堀に魚市場がありました)
文運(ぶんうん):文化・文明が発展しようという様

昔の京町堀通



京盛会
 明治38年ごろに、西区の各町内に観光、懇親を目的、また慶弔行事の相互扶助、祭礼、防疫、教育、衛生、防火の協議機関として町内にできたとされます。
 当時は、一丁目は京盛会、二丁目は京二会と名づけられていたそうです。
 戦争の際にも、この町内会が、国策に従い近所の方を助け合い、出征兵家族の慰問、募債、防火、防空に全会員一丸となって協力したと記されています。
 

 そのような昔からこの京盛会があったことに驚きです。
ただ、この京盛会、参考の資料「京町堀慕情 京盛会復興30周年記念誌」にもあるように昭和56年に30年記念として発刊されているということで、昭和26年ごろに今の京盛会として再組織されたものと想像します。

 それにしても昔から助け合いの精神で組織されていたということを、現代のわれわれも見習わなければと思う今日この頃です。
 四つ橋筋京町堀一丁目の交差点を東に入った阪神高速の高架下にある「京町堀川跡」の記念碑にも京盛会の文字が刻み込まれています。